『百の夜は跳ねて』古市憲寿【ネタバレなし】初読時は少し狙い過ぎに思ったけど。

内容(公式サイトから引用)

「格差ってのは上と下にだけあるんじゃない。同じ高さにもあるんだ」。高度200メートル。僕はビルの窓を拭く。頭の中で響く声を聞きながら。ある日、ふとガラスの向こうの老婆と目が合い……。境界を越えた出逢いは何をもたらすのか。無機質な都市に光を灯す「生」の姿を切々と描き切った、まったく新しい青春小説。

(新潮社公式ページより)

げいむすきお
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タイトルの『百の夜は跳ねて』とはどういうことだろうか?

 まず「百の夜」とは何だろう。「百人のそれぞれの夜」ということなのか、「夜に活動するある1人の百日間」ということなのか、「百日間昼が来ずに連続する夜」ということなのか。

「跳ねる」という言葉もなんだろうか。跳ねるも色々と意味がある。液体が跳ねる。不良品を跳ねる。仕事が跳ねる。

「自分の人生が白夜の如く終わらない夜の内にあると考えていた人がようやくそこから抜け出せる話」という解釈が文学作品のテーマとしてはありそうか。

「夜の街の自然淘汰力によって百日間で不良品のような落語者が社会から取り除かれていく話」ならクライムノベルになりそうだし、「百人それぞれの一夜が弾け跳ぶような大事件が起こる話」なら群像サスペンスになりそうだ。

あらすじ

 主人公はビルの窓清掃の仕事をしている。最初から望んでいた仕事ではなかった。とはいえ、いやいや就いたわけでもなく最終的には自分で選んだ仕事だ。

 主人公はガラスを拭きながら、窓の外側から中側の世界を覗く。そこには色々な気づきがあった。同じマンションでも低層階から高層階に行くほど広くて、家具も良いものを揃えている。中層階は部屋が散らかっていることが多く、住人の忙しさを表している。そして主人公は思う。

統計があるのかどうかは知らないけど、どこの世界でも同じなのかな。真ん中が一番働いている。憲法を改正するとか、法律を通すとか、日本中がびっくりする新しいサービスを始めるとか、そんな大きなことをするわけじゃない。来年の補助金をどうやって引っ張ってくるかとか、会議の席次をどうするかとか、そういうことに頭を悩ませてる。

 そんな中、老婆がいる部屋の窓に「3706」と書かれているのを見つけ、自分へのメッセージだと思った主人公は3706号室を訪ねる。すると、老婆に迎え入れられ、コーヒーやイチゴを振舞われる。そこで、老婆に現金を渡され頼まれたことは……。

あまりに狙いすぎじゃない?

「シングルマザーの同僚が窓清掃の傍らゴンドラの中で主人公の性器を突然くわえる」「学校で勉強は出来たけど、就活の面接ではさっぱりで内定がとれない主人公」「お金持ちの老婆は高層階の豪華な部屋に住んでいるが娘は頻繁には訪れてくれない」「大金を払ってまでたくさんの箱が窮屈に濃縮された街を見下ろしたいなんて滑稽だ、と思う主人公」「仕事中に5階から転落して死んだ同僚をみてショックを受ける主人公」「高層マンションには人が多く住んでいるはずだけどそれが感じられない」

 性の話、格差、生と死、金はあっても幸せかどうかはわからないなどなど文学的な要素をわかりやすい姿のままでこれでもかと詰め込んでくる。「こういうのが文学でしょ?」という嫌味にも感じるが、狙いすぎのように思わせることを狙っているのかもしれない。一周回って新しいと思わせるような……。私には判断がつかない。

小物が固有名詞で数多く出てくる。

「IKEAで買ったローテーブル」「Macbook」「BMW330iデビュー 6320000円」「ベネッセのグループディスカッション」「御影ダンケ」「iPhone」「GoPro」「THETA」などなど、現代らしい固有名詞が盛りだくさんで出てくる。

 おそらく、今のこの時の物語なんだということを意識づけるためだろう。この物語は「後世の人間が自分の事として読むような物語」ではなく、「この物語が書かれた時代ではこういう人間がこういうことを考えていたんだ」と語り継ぐ物語を目指したからではないだろうか。現代の純文学の集大成を作ろうとしているので、狙いすぎとも思える典型的な事象が多数出てくるのではないかとも思われる。

 未来が現代になったころに、近代の純文学の集大成として紹介されるような物語を目指したのではないだろうか。

時間をおいて読み返してみると。

 そもそもが第161回芥川賞候補作であることを意識して読んだので、作品全体が狙いすぎに感じていたが、そういったことを離れて、ただ一つの作品としてだけ見るとそこまで悪くはないんじゃないかと思った。狙い過ぎ感はどう読んでみてもあるが、それはそう読まれることを狙ったものであって、本筋は王道にして細部で勝負という意識で書いたんじゃないかとも思える。

 それも悪く言えば「小手先の技術だけ達者で、魂が感じられない」とかなんとかそれっぽいことをいうことはできるが……。

「コンビニ人間」や「むらさきのスカートの女」のように、社会の底辺のように扱われるような職業についていて、その中でも特に変わり者として扱われているにも関わらず、そんなことは一切気にも留めず、最初から最後まで何一つ変わらないような主人公の作品が芥川賞をとっている昨今の事情を考えると、「『学生の頃は自分が社会のレールからはみ出すなんてことは想像もしていなかった。金持ちはくだらない。そんなくだらない金持ちを持ち上げる社会はもっとくだらない』と斜めに構えていたけど、色んな人に出会い、色んな出来事があってうんぬんかんぬん」的な話は少し古いんじゃないかと思う。

 古いとは思うが、作者もそれに気付いていないはずはないと思うので、あえてなんだろうと思う。そう思ったうえで読むと、細かい描写に目がいって、それほど悪くはないんじゃないかと思うようになった。

「とりあえず、芥川賞のことを意識して書いたんでしょ? 芥川賞云々はおいておいても悪くはなかったから、次は賞にこだわらずに書いたらいいんじゃないかな」と言いたくなるような作品だった。

げいむすきお
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 作者の古市憲寿は度々テレビに出ている。作者のテレビ露出が多いことはその作品にとっていいことなのか、悪いことなのか分からない。テレビでその姿、発言を見たところで、所詮は表層しかわからず、本人の評価について誤解ばかりが先行し、作品を見る目が歪まされるのではないかと思う。


 テレビで自分の本当の考えを上手く表現できるような人だったら、小説なんて書かずに、もっと自分の口で思っていることを表現しているだろう。対面する相手に自分のことを誤解なく、全て表現できるのなら、小説なんて書かずに、街頭に立って演説でもした方がいい。今なら動画にして全世界に発信することだってできる。純文学になるようなテーマを心の中にもち、それを生身の人間が口で表現して外側に出せるのなら、きっと信者が一杯できることだろう。それが出来ないから小説を書いているわけで、それなのにテレビであれこれいうのは作者の名前は売れても作品にとっては損にしかならないんじゃなかろうか。逆にもともとテレビで活躍していて、言い足りないことを小説で補う場合は非常に良いと思う。

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