『推し、燃ゆ』宇佐見りん【ネタバレなし】推し活は逃避か背骨か。逃避ならばそこに居場所がなくなった時にはまた別の場所に逃げれば良いだろうがそれが背骨ならば……。

内容(公式サイトから引用)

 逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。

(河出書房新社公式ページより)

参考 『推し、燃ゆ』公式特設サイト河出書房新社
http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.pngげいむすきお

 よくよく考えてみると「熱中する対象が何かによってその意味を外部から規定されてしまう」のは不思議な話だ。

 

 この物語の主人公は、とあるアイドルが好きで、生活のほとんどをその好きなアイドル、推しているアイドル=推しの”解釈”に捧げる。推しのSNS、推しが出演するテレビ・ラジオ、推しのインタビューが載っている雑誌など可能な限り推しに関する情報を集め、推しがどういうことをして、それはどういう思いからしたことなのか理解しようとするのだ。キリストの弟子たちがキリストの立ち居振る舞いを書き留め聖書としたように、仏陀の弟子たちが仏陀の説法を書き留め仏教の経典としたように、主人公は推しの一挙一投足全てに注目し、記録し、意味を見出し、ブログにアップする。キリストや仏陀の弟子たちが、師の教えのためであれば死をも厭わなかったように、主人公も人生全てをかけて”推し”を”解釈”する。
 

 外から見れば、これは異常な事態だ。「なぜそこまで一人のアイドルに入れ込むのか?」。多くの人はそう思うことだろう。しかし、その入れ込む対象が恋人だったら? 配偶者だったら? 自分の子供だったら? どう思うだろうか。おそらくそれほど奇異なこととは思われないだろう。場合によっては、恋愛小説になったり、美談になったりして、多くの人の共感を得る。
 その違いは何かと問われたら、同じく多くの人は即答すると思う。

 

「違いは対象との関係性だ」

 

 配偶者にしろ、恋人にしろ、自分の子供にしろ、相手が自分にとっての唯一の存在であると同時に、相手にとっても自分は唯一の存在である。実際にどうかはともかく、そう思いながら誰かを特別扱いするのであれば、不自然さを感じることはない。

 

 しかし、推し活は違う。いくら推しても自分は数多くいるファンの中の一人に過ぎない。どれだけ推しを解釈しようとも、推しに自分を認知してもらうことは出来ない。しかもそのことを推している本人が一番よく理解している。第三者から見れば、そこまで入れ込むだけの納得できる理由が見当たらない。そのため「推し」に生活のほとんどを捧げることに共感しにくい。

 

 ただ、それはあくまでも第三者からの視点であって、本人の中には全く違う理屈がある。多くの人が家族や恋人から得ている「生きる理由」のようなものを推しから得ていて、そのことが人生を捧げるに値する十分な理由となっているのだ。 

 そう聞かされても、やはり第三者は納得できない。「アイドルに入れ込むのは、現実が苦しくてただの逃げてるだけじゃないのか」と考える。いくら本人が「逃避じゃない」と言ったところで「他に拠り所がないのでは、現実から逃避しているのと変わらないじゃないか」という思いをぬぐえない。

 

 私の趣味はゲームで、ゲームもまた、ドラマや漫画なんかで主人公が嫌なことがあって落ち込んでいるときの一時的な逃避先としてよく利用される。実際、やるべきことから逃げてゲームをする人もいるし、スポーツや創作活動は楽しむためにもある程度の才能が必要になるのに対し、ゲームは才能がなくても楽しめるものなので仕方がないところもあろうかとは思う。

 

 スポーツや創作活動を楽しんでいる人は「上手い下手なんか気にせずに楽しめばいいんだよ」とでも言うだろうが、下手であってもある程度は自分の思い通りにならないと楽しくはないだろう。いくら練習しても上達することなく、それでも楽しめるというのなら、それもまた才能だろうと思う。楽しむ才能だ。

 

 推し活もゲームも、努力をしなくても楽しめるように作られている。もしくは努力が報われるように作られている。ゲームは言わずもがなだが、推し活も握手券付きCD、投票権付きCD、ブロマイド、その他よくわからないグッズを買うことで、推しの売り上げを伸ばしてあげれば、推しのメディアでの露出が増えるような仕組みが作られており、その仕組みのおかげで「金を使う=推しのための活動をした」という思いを抱けるようになっている。ただお金を使うだけで何かをやり遂げた気分にさせられるのだ。だから、努力が必ずしも報われない複雑な現実からの逃避先として、単純に努力が報われるゲームや推し活が選ばれるのだろう。

 

 色々選択肢がある中で推し活を選んだのではなく、なんの能力がなくても楽しめるから推し活を楽しんでいるだけではないのか。それは逃げ場がなくなった人があやしい新興宗教や詐欺師に騙されるのと変わらないように思える。

 

 では、もしその第三者に逃避場所と思われている推し活ですら、逃げ場所がなくなったら? それがこの「推し、燃ゆ」だ。推しが炎上し、いくら応援しても、アンチの攻撃が収まらない。もし、本当に「推し活は逃避じゃない」というのであれば、踏みとどまれるはずだ。

 

 さて、主人公あかりの出した結末とは……。

 

 ちなみにゲームに関しては、暇な時間に遊ぶだけなら「暇つぶし」、やるべきことを放置してやるのは「逃避」、やるべきことをやった上で時間を捻出して遊ぶのが「趣味」だと思っている。また、ゲームは「努力が報われる」ように作られていると書いたが、それはあくまでもRPGや一人で遊べるアクションゲームの話だ。それらは相手がコンピュータなので、努力すればクリアできるように出来ている。しかし、最近はネットを使った対戦物が席巻してきており、そういったものはどんなに頑張ってもうまい人に勝つことは出来ず、才能のない人間にとっては、「努力は報われる」とは言い切れない世界となってきている。

面白かったポイント
  • 主人公の推し活に対する熱量と滑稽さ
  • 嫌なことから目を背けて行う推し活はそれでも逃避ではないと言えるのかどうか
  • アイドルの上野真幸と現実の上野真幸、SNSでのあかりと学校やバイト先でのあかり、よく知る人のネットでの振舞とネット外での振舞などなど人の二面性を表すシチュエーションがあって、それぞれに違う対応をする主人公

あらすじ

 主人公のあかりには応援しているアイドルがいる。いわゆる”推し”がいる。

 推しの名は上野真幸。アイドルグループ「まざま座」のメンバーだ。推し方は十人十色だが、あかりは推しの作品も推しその人もまるごと理解しようとするタイプだった。あかりは「推しが感じている世界、見ている世界を同じように見てみたい」と思っていた。そのために推しの情報を可能な限り集めた。
 あかりがそのアイドルを推し始めて1年。それに対して、推しの芸歴は20年。あかりは1年の間、推しが発した20年分の情報を”解釈”し続けた。その結果、ファンミーティングの質問コーナーの返答は大方予測がつくほどになったし、裸眼だと顔がまるで見えない距離の舞台でも推しが登場するとわかるまでになった。
 それでも推しはあかりの予想しない表情を見せることがあり、そうなると「実はそんな一面もあるのか」もしくは「何か変化があったのだろうか」と考え、何かが分かるとブログに綴り、自らの解釈を強化する。そうしているうちに、あかりのSNSでの発言や、ブログの内容はファンの間でも知られるようになり、上野真幸「ガチ勢」として有名になっていく。

 そんなある日、推しがファンを殴ったとして炎上した。ネット上では、ファンの様々な反応が見られた。ファンをやめる者、アンチになる者、推しをかばう者。あかりはそれでも推しを解釈しようとし続けるが……。

肉と背骨

 公式の内容紹介の一行目に「逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ」とあるように、あかりは推し活を逃避先ではなく、「生活の中心」であり「自分自身を支える自我の芯」であると考えている。そのことをあかりはこう表現している。

勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることとで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

 あかりはただひたすらにストイックに推し活を続ける。推し活にはお金がいるからバイトをするし、推し活以外のことにお金を使いたくないため服も買わない。行動のモチベーションが全て推しに繋がっている。
 肉付けしていくのではなく背骨に集中していく。気持ちが外ではなく内に向かっている様子や、自分自身に絶対に必要なものだと考えながらどこかしら空虚さも感じている様子が上手く表現されていて面白い。骨の密度の高さからくる自信と、肉のない空っぽさが同居している。

「逃避でも依存でもない」とつける意味

 なぜ「逃避でも依存でもない」なんて言い訳めいたことを言わなければならないのだろう。これが推し活の話ではなく、高校球児が全てをなげうって野球に専念している話だったとしたらどうだろうか。雑誌のインタビューで「あなたにとって野球とはなんですか?」と聞かれ「野球は私にとって背骨です」と答えるならば、一定の理解を得られるだろう。あえて「逃避でも依存でもない」なんて言い訳めいた言葉を付ける必要はないだろう。

 どちらも同じように自分自身を一つのことに没頭させているにもかかわらず、第三者からの評価は大きく違う。

 一方が社会生活への積極的な参加であると思われるのに対し、もう一方は逃避だと思われてしまう。

スポーツと推し活の違い

「命を燃やしている」という点では野球も推し活も同じだろう。しかし、いくつか違う点がある。例えば、スポーツの価値が急激に変化することがないのに対して、アイドルの価値は簡単に変化してしまう。野球にはプロリーグがあってお金を稼ぐことが出来るが、推し活をいくら突き詰めていってもお金は稼げない。スポーツが人々に感動を与えることが出来るのに対し、推し活は本人だけのものだ。

 推し活が逃避だと思われるのは、アイドルという作られた偶像に騙されていると思われているから? 将来の社会生活の役に立たないから? 生産性の問題だろうか? それとも、ほとんどの人はアイドルは作られたものでスキャンダル一つで壊れてしまうことがわかっていて一定以上は距離を置いているのが「普通」だからだろうか? あかりの場合は、外に目を向けなくなった原因も一つとしてありそうだが……。

外に目を向けなくなった原因

 あかりは勉強も運動もあまり得意ではない。大事なことを忘れたり、部屋の片づけが苦手だったり、基本的に自己肯定感が低い。もともとそうであるのに、特に自己嫌悪につつまれる出来事が起こったその時に、あかりが推しにはまるきっかけとなる出来事が起こった。

 心が弱っているときに何かにはまってしまうのはよくあることだ。マインドコントロールは、まず心を弱らせてから洗脳し、行動を支配する。

 それではあかりは心が弱っているからこそ、そこにつけこまれたのだろうか? そういわれても仕方がないシチュエーションだ。しかし、その出来事が起こっていなくてもはまっていた可能性はある。

 そのあたりをどう捉えるのかもこの話の面白いところだろう。

逃避や依存と呼ばれる可能性

 適度であれば好ましいものとされている恋人との時間や子供に心血を注ぐことも、生活の基盤が恋人中心になったり、子供中心になったりと、過度になればやはり現実からの逃避だと言われてしまう。やれ「恋人への依存だ」、やれ「自分が出来なかったことを子供に背負わせている」などなど。仕事に打ち込んでいても、家庭が上手く言っていなければ、今度は家庭からの逃避だと言われるだろう。どんな行為でも、逃避と呼ばれる可能性ははらんでいる。

 その上で、「推し、燃ゆ」を読み終え、彼女の推し活が逃避だと思うか、逃避だとしても彼女にとって必要なことだと思うか、そもそも逃避ではないと思うか。もちろん、本文はあかりの一人称であるから、「逃避ではない」というスタンスになるが、「読み手である自分はどう思うのか」という点は、この作品の楽しみの一つだろう。

 例え、あかりの推し活が逃避だったとして、「じゃあ、現実から逃げずに立ち向かっていたらどうだったのか」と考えたとき、明るい未来が待っていたとも言い切れないように思う。「それでも現実に立ち向かうべきだ」と言えるのか。「それならせめて推し活でもあった方が良い」と思うのか。「やはり本人が言うように逃避ではなく、これこそが生活の質をあげるために必要なものである」と考えるのが建設的なのか。

SNSでは人気のあるあかり

 上野真幸「ガチ勢」として、あかりはSNSの一部で有名だ。ネットだけの付き合いではあるが、仲の良い人もいれば、あかりを慕っている人もいる。ネット外で出会っていれば、もしくは、推しがいなければ、知り合うこともなかったであろう人たちだ。もし、ネット外で知り合っていても、仲良くなることもなければ、慕うこともなかっただろう人たち。それ位、現実のあかりとSNS上のあかりにはギャップがあり、そのことを本人はよく分かっている。当然そのことはアイドル上野真幸と現実世界に生きている上野真幸が違うことにもつながるが、あかりはどう思うのか。

 また、あかりは自分のよく知る人間の「ネット」と「ネット以外」でのギャップを感じる機会があった。その時あかりはそのギャップに深く踏み込むことなく見ないふりをした。対象の別の一面に興味がなかったのか、知るべきではないと思ったのか……。

色々な人間の様々なギャップ

 アイドルの上野真幸と現実の上野真幸、SNSでのあかりと学校やバイト先でのあかり、よく知る人のネットでの振舞とネット外での振舞。それぞれギャップがありつつも、そのギャップに対するあかりのリアクションは違う。

 本音と建て前であったりとか、「本当の自分を誰もわかってくれない」もしくは「本当の自分は誰にも見せられない」とかなんていうのは、昔からあるテーマだ。ただ、そのテーマを取り扱う題材は時代とともに変わってきているという感じだ。

http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.pngげいむすきお

 完全に余談だが、芸能人が不祥事を起こした時に「なんでカメラに向かって謝る必要があるんだ。誰に対して謝っているんだ」というような論調を最近見かける。しかし、現実にもこの話の主人公のように、ある一人の芸能人を強く推す存在がいることを思えば、謝るべきだと言わざるを得ない。誰かの怒りを鎮めるために謝るのではなく、悲しませた誰かのためと考えれば、謝るのは自然なことの様に思う。どれだけ謝っても足りないだろうとすら思う。

 

「ファンが勝手に推しているだけ」というのであるならば謝る必要がないという論調も通るだろうが、推してくれる誰かが多数いないと存続しないようなビジネスモデルを作って、そこに寄りかかって金を儲けている以上は責任があるだろう。

 

 物を作る企業が不良品を出せば、謝罪してどんなに費用が掛かってもリコールするわけで、夢を売る商売をしていてその夢を壊したのなら、謝罪してその夢をリコールするしかなかろう。

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