『流浪の月』凪良ゆう【ネタバレなし】都会の冷たさと田舎の排他性を同時に併せ持った社会が広がっている。

内容(公式サイトから引用)

 あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい――。実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。

(東京創元社公式サイトより)

げいむすきお
げいむすきお

 田舎は「人の心的距離が近すぎて窮屈だ」「噂がすぐに広まる」「いつも監視されているみたいだ」と言われている一方で、都会は「他人に冷たい」「隣人が何をしているかも知らない」「孤独死が問題になっている」と言われている。

 どちらが良いかなんて一概には言えない。お節介に助けられることもあるし、無関心に救われることもある。誰かに助けて欲しいと思うこともあれば、一人にしておいて欲しいと思うこともある。各人の性格にもよるし、その時の状況にもよるだろう。

 両者の良いとこどりを上手いバランスで出来ないものかなと思う。

 

 残念ながら現実は真逆で、悪いとこどりを最悪のバランスで実現してしまっている。隣人が何をしているのか知らなくても、インターネットによって遠くの個人の悪事を知れるようになってしまった。それも詳細は伝わらず、大まかな雰囲気だけが広がり、悪事を起こした個人は社会から排除されてしまう。

 都会の冷たさと田舎の排他性を同時に併せ持った社会になってしまったのだ。

 
 ただ、どんな社会であれ、人間関係によって起こる問題は、人間によってしか救われないものだ。全ての人間関係が煩わしいからと、無人島で一人きりで生活出来るのならばそれでいいが、そんなことは出来るはずがない。人間の作った技術、法律、社会の中でしか生きられないならば、出来ることは社会と適度な距離を保って生きていくのが精々だろう。その”適度な距離”は人によって違って、第三者がその距離を評価して、幸福だ、不幸だということは出来ない。

あらすじ

 主人公の更紗は自由な両親の元でのびのびと暮らしていた。ところが、あることをきっかけに親戚の家に預けられることになる。ただ、その親戚の家は、主人公にとって安らげる場所ではなかった。

 友達と遊んだ帰り道、更紗は親戚の家には戻りたくなくて公園のベンチに座っていた。すると、日中によく見かけていた青年、佐伯文に話しかけられる。家に帰りたくないことを告げると、「うちにくる?」と誘われた。更紗は「いく」と答えて立ち上がる。それから、しばらくの間、更紗は佐伯文の家で寝泊まりすることとなる。

 そこでの生活は安穏としており、更紗は自由を謳歌していた。しかし、そんな日々も長くは続かない。更紗はまだ少女と呼ばれるような年代であり、佐伯文は警察に捕まる。そして、未成年者略取及び誘拐の罪に問われてしまう。

 世間の評価は「恐ろしい幼女誘拐犯」と「可哀想な被害者」というものだった。現実との乖離は大きかったが、更紗がどう取り繕ってもその評価は覆らない。ストックホルム症候群のために犯人に同情的なのだとしか受け取ってもらえないのだ。

 そして、数年の時が流れ、更紗は佐伯文と再会する。しかし、誘拐犯と被害者の再会を祝福する人はどこにもいなかった。

善意を悪意で迎えるのは悪いことなのか。

 人は見たいところだけをみる。

 世間が更紗と佐伯文の二人を見る目もそうだし、二人が世間を見る目もそうだ。二人とまとめてみたものの、二人だってお互いに見えていないところが沢山ある。

 でも、それは悪いことばかりでもない。注視されることで救われることもあれば、見ないでいてくれたり無関心でいてくれたりすることで救われる時もある。

 そこに善意や悪意といった気持ちが絡むので話はさらにややこしくなる。
「助けてあげたい。何とかしてあげたい。」との思いから来る善意の注視。
「何かあったら批判してやろう。批判してストレスを解消しよう。」というような悪意のある注視。
「聞くと傷つけるかもしれない。あえて聞かないでおこう。」というような善意の無関心。
「そちらの都合は聞きたくない。こちらの言い分だけを聞いていればよい。」というような悪意のある無関心。

 受け手の気持ちもある。
 善意の注視がお節介に感じることもあれば、悪意のある無関心であっても、聞かないでいてくれて助かると感じることもある。

 二人に対しては「悪意のある無責任な注視」であっても、同じ行為が場合によっては結果として「社会の健全性を守るための注視」となることもあり得る。

 結局は誰かが誰かに何かをするときに、「どうせ、すべてが見えて完璧な行動がとれることはないので、何が正解で、何が不正解なんて気にする必要はない」という当たり前の結論にたどり着く以外ない。

 それは裏返すと、自分が誰かに何かをされたとき、相手の行為をどんな風に感じても構わない、仕方がないのだということでもある。
 理屈の上ではそうとわかっていても、感情がそれを許さないこともある。善意に怒りを感じてしまい、そのことに罪の意識を持ってしまうのだ。

 善意に対して善意を返す必要はあるのか。悪意に対して悪意を返してもよいのか。考えれば考えるほど身動きが取れなくなっていく。

 世間から見れば、誘拐犯と被害者であることはゆるぎない事実であり、更紗と佐伯文を引き離そうとするのは、善意以外の何物でもない。
 果たして善意は受け入れなければならないものなのか?

 読者は様々なことを思いながら、二人それぞれの選択が最良のものになることを信じて、追いかけていくしかない。

「流浪の月」というタイトルから察するに主題は。

 月は地球の周りをぐるぐる回っていて、しかも、自転と公転の周期が同じなので、地球からは同じ側面しか見ることが出来ない。

 そのくせ、地球からは様々な姿で見える。上弦、下弦、満月、新月。月食、半影食。地平近くの月は大きく見えるし、頭上にあれば小さく見える。

 同じ月食でも、赤銅色の月が不吉だという時代もあれば、物珍しさから好まれる時代もある。

 月はいつの時代も変わらず、ただ地球の周りをまわっているだけなのに、それも同じ側しか見せてはいないのに、月を見る人々は様々な評価を下す。

 様々な評価を下されてもなおやはり、月は地球の周りを回り続けるし、同じ側しか見せることがない。

 世間の評価に左右されない揺るがない思い。そういった所が主題として書きたかったのだろうと思う。

表現も美しい

 ここまで、全体を流れるテーマについて書いてきたが、この作品の魅力はそれだけではない。表現の美しさも特筆すべきものがある。

 基本的には更紗の一人称で話が進む。最初は少女らしい無垢な姿、自由奔放な姿を見せる更紗。佐伯文と離れ離れとなり十年が過ぎる。十年経った更紗は、二十歳を超えており、世間に迎合した姿を見せる。

 それが、佐伯文と再会することで、徐々に本来の姿を取り戻していく。その間の心理描写に迫力と説得力があって、作者の世界観に吸い込まれていく。

[prpsay img=”http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.png” name=”げいむすきお”]

 読者は「世間」でもあり、「二人」でもある。誰もが「善意でしたことなのに結果として誰かを傷つけてしまった」という経験もあれば、「善意でしてくれているとわかっていても、傷ついてしまった」という経験もある。


 善意を善意と受け止めてもらえず、悪意で返されて悲しい思いをする人もいれば、誰かの善意を裏切れず、善意に善意で答えようとした結果、やりたいことが出来ず身動きが取れなくなる人もいる。後者に対して「善意に対して必ずしも善意で返す必要はないんだよ」と言ってあげたくても、その結果、前者となって悲しむ人が生まれることを考えると、軽々しく言えることではない。


 読んでる間中、泥沼の中に胸くらいまではまりこみながら、歩くこともままならないのに必死に走ろうとするようなもどかしさ、息苦しさをずっと感じ続けるが、最後に二人それぞれが出した結論はとても涼やかだった。[/prpsay]

一般論として

[prpsay img=”http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.png” name=”げいむすきお”][/prpsay]
げいむすきお
げいむすきお

 一旦それはそれとして、「もし、本当に被害者がストックホルム症候群のために誘拐犯をかばっているだけだった場合」はどうするべきだろうと考えてしまう。

 

 更紗と文の場合は、その関係を読者がよく知っているために、口を出してくる人たちの行為が無責任な第三者のお節介に見える。ただ、その関係を知った上でも、お節介ではなく、社会的責任を真っ当に果たしているだけだと思う人もいた。それだからこそ、更紗はその善意に苦しむわけだが、「じゃぁ、私が誘拐被害者の周囲の人間の内の一人だったとしたら、どうすればいいのだろう」と思う。

 私は無関心になるべきなのだろうか? でも、もし、本当にストックホルム症候群だったとしたら? 知ろうとしなければわからない。だが、知られたくないという彼女の思いを無視も出来ない。彼女が話さない限り聞かない方がいい? でも、もしそれで被害が拡大するからもしれないとしたら?

 

 はじめに、「隣人が何をしているのか知らなくても、インターネットによって遠くの個人の悪事を知れるようになってしまった」と悪いことかのように書いた。しかし、逆に言うと「隣人にあれこれ詮索されずに済むし、遠くの出来事をぼんやりとだけでも知ることができるようになった」ということでもある。ネットの情報のおかげで犯罪被害から免れることもあるだろう。過去を詮索されず、生まれや育ちではなく今の自分だけを見てもらえることに喜びを感じることもあるだろう。

 ただ、社会が変わってきているというだけで、社会が悪くなってきているというわけではないのではないだろうか、とも思う。

 この小説が、本屋大賞に選ばれたという事は、多くの人が内容に共感しているということだ。それは「ネットの情報だけであれこれいうこと」は良くないと考えている人が多かったり、「人の事をあれこれ詮索する人」を鬱陶しく思う人が多かったりするからだろう。

 
 みんな他人には興味を持つべきではないし、詮索もして欲しくないということだろうか。私はお節介を焼かれるくらいなら孤独死した方が良いと思う方の人間だから、別にそれでいいと思うが、みんな本当にそうなのだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です